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仕事、投資、技術メモ、オカルト、その他クソミソな趣味や日常についてあれこれ綴る、日記帳というより雑記帳。忘却の彼方に置き忘れた夢と情熱を求めて彷徨中。

故人は褒めて二度殺す

祖母の家に行ったときに
今は亡き祖父の話になったので、
ちっと祖父の話を書こうと思う。
(思ってたより長くなった)



社会人になってすぐ。
祖父の容態が急激に悪化した。

ここでいう祖父は、父方の祖父だ。

大正浪漫生まれの戦争育ち。
東京帝国大学卒業後は都市銀行に勤め、
その後はどこかへ出向して社会人人生を
終えたようだが、詳しい話は知らない。
あまり口数の多い人ではなかった。

母親と父実家とが凄まじく不仲であり、
絵に描いたような嫁姑戦争が勃発していた。
そのせいか、当時の父実家を訪れた記憶も少ない。

しかし僕は、父方の祖父のことがなぜか好きだった。
気難しく寡黙な人ではあったものの、
時に周囲を驚かせるような豪快な行動をとったり、
インテリでスマートでシニカルな冗談を言ったり、
とにかく静かなのに面白い人だった。


そんな祖父も年には勝てない。
どうやら危篤のようだ。

老衰による多臓器不全で
入院しているとのことだ。


当時の仕事場が江坂だったこともあり、
僕はちょこちょこ見舞いに顔を出した。
永らく会っていなかったので何の話をしようか
最初は不安だったが、実際に会ってみれば
とりとめのない話を澱みなく続けられた。
御年87歳にして、あれだけはっきり受け答えを
してくれた祖父を少し誇らしく思う。

そうしてしばらく見舞いを続けていたある時、
祖父の病室が他棟へ移ることになった。

その時点で、すぐに察した。
祖父の命はもう永くないということを。


睡眠時間が日に日に長くなっていく祖父。
体力は著しく低下していっているようだ。

ある時、父親から電話があった。
「もう誰も見舞いに来るな」
そう祖父が言っているというのだ。
弱っている姿を子や孫に見せまいとしている、
そういう所も祖父らしい…

加えて、僕は移転先の病棟が好きになれなかった。
終末医療の現場がすべてそうだとは言わないが、
暗い廊下、立ち込める薬品の臭い、重苦しい雰囲気、
そのすべてが好きになれなかった。

僕の足は、必然的に病院から遠のいた。


数日後、祖父の訃報を聞くことになる。
その最期は壮絶なものだったようだ。

祖父「僕はもう、覚悟はできてるから」
医者の問診を終えた祖父が、
祖母に向けて放った言葉だ。
祖母「大丈夫、よくなりますよ」
医者の話を聞く限り、後は苦痛を緩和するのみで、
今後よくなることはないと分かっていながらの
祖母の言葉には、一体どれほどの悲嘆と憂愁を
滲ませていたことだろう。
祖父「体に障るから、今日はもう帰れ」
祖父ほどではないにしても、決して体調が
いいとは言えない祖母のことを、
祖父は最期まで案じていたそうだ。

今後回復する見込みはない。
それを悟った祖父は夜中に、自身に繋がれていた
チューブというチューブを一つ残らず引き抜いた。
中には動脈注射されているものもあったため、
シーツは祖父の鮮血で赤く染まっていたという。

発見した看護師は悲鳴を上げた。
すぐさま医師が処置を行ったそうだが、
既に手遅れの状態にあったらしい。
少しでも安らかに逝けるようにと、
最期まで手を尽くしてくれたそうだ。


病院側にご迷惑をかけてしまったとは言え、
祖父の最期は立派な死に様だったと思う。
生き永らえることを選ばず、潔く散った祖父を。

自分の体が動いているうちに、
自分の頭が働いているうちに、
自分の幕の引き方を決断し、
自分の手で最期を迎えた祖父を。

僕には信仰はない。
それでも、今は安らかであってほしいと切に思う。
自殺者が地獄行なら余りにも救いがない話だから。



この件からは、「安楽死」の必要性について
少し考えさせられた。スイスやオランダでは
既に合法化されている安楽死だが、はて日本では。


残念ながら、法整備はまだまだ先になりそうだ。

ついでなので書いておく。
この日記を見ている僕の知人・友人へ。
なんらかの事情で僕が植物人間になった場合、
僕は金がかかるだけの延命治療など望まない。
その時は、どうか容赦なく僕を殺してほしい。

せめて、それに係る手続きに尽力してください。
後生なので、どうかお願いします。